『ジョーカー』感想(ネタバレあり)

 

 この作品は笑いの場面が印象的だ。

コメディアンの劇場に、勉強のためか、 アーサーが訪れる場面。

笑うところが完全に他の客とずれている。客が湧いている場面では笑わず、静かな場面で大笑いしている。

アーサーが、僕はコメディアンになる、と言った時に彼の母が驚いていたのを思い出す。

彼のネタ帳にも裸体の切り抜きや、塗りつぶされたような落書きがあった。ネタ帳というからには、自分がウケると思ったネタが書かれているのだろうが、それは傍目には恐ろしいものにしか見えなかった。

笑いどころが世間とずれている。にもかかわらず、笑いを与えるコメディアンになりたいと考えているところが、アーサーの抱える最も大きな悲劇の一つかもしれない。

よく考えると、世間とのずれ、というものは、マイノリティ、社会的弱者の抱える問題は全てに伴ってくるものだ。「普通の人」はこうする、とされていることが自分には当てはまらない。それが「笑い」で表されている。

コメディアンを志望するアーサーだが、彼にとって「笑わせる」ことと「笑われる」ことは全く違う。それは、自分のパフォーマンスを笑い者にしたマレーに対して不服を唱えていることからわかる。

ショーに出演したアーサーは、最後まで自分の思うように振る舞えない。何かを言っても、司会者のマレーの返答により、彼の笑いに変えられてしまう。用意したネタを披露しようとしても、口を挟まれる。その結果、追い詰められたアーサーは結果的に凶行に及んでしまう。

マレーが邪魔をせずアーサーをもう少し見守ってネタをさせていればこのようなことにはならなかったのだろうか。前日には、アーサーは披露しようとしていた「ノックノック」のネタの後に自分の頭を撃つそぶりを見せていた。彼の考えるジョークとしてはそれが完成形だったのだろうか。

それが意図だったとしても、マレーに邪魔をされたアーサーは別の行動をとることになる。そしてそれが、道化師のマスクの者たちにとっては、おそらくアーサーの用意したネタより「ウケる」内容になってしまった。

ところで、このテレビショーないでのやりとりはとても説明的だ。アーサーが非常に饒舌に考えを述べている。悲劇と喜劇や善と悪は主観的なものだから、自分で決めることにした、という発言。悲劇と喜劇は劇中の映画にも出てくるチャップリンの、「喜劇はクローズアップでみれば悲劇だ」という言葉ともリンクする。このようなキーワード的セリフを山場で主人公が発言するなんて、とても説明的に感じる。裏があるのでは?と疑ってしまうほどだ。

悲劇と喜劇は見方次第だ、というが、この映画は全体を通してかなり悲劇的だ。だが強いていうならば、ラストシーン、病院のスタッフに右に左に追いかけられるアーサーと、その上にレトロな文字のFinの文字が重なる場面は喜劇のようでもあった。しかし、観ている側としては、いや、そんな最後に少しコメディ的要素をだされてもこの気分の慰めにはならないのですが、という気持ちだった。

それにしても、ラストの病院は福祉事業を打ち切られた市の施設にしては綺麗だった。暴動の後に政治の方針が転換されて予算がつくようになったのか?または第一級の患者が集まる病院(アーカムアサイラム?)にはもともと十分な予算が当てられていたのか?

最後の病院の場面には、見たままの見方の他に、物語の前の話説、全て妄想説、死後の世界説といった考察があるらしい。が、どの説も病院の清潔さの理由付けにはなるので、絞ることはできない。

結末の意味に関して考えると、会話が気にかかる。以下は記憶だが、

「何がおかしいの」「ジョークを思いついて」「教えて」「理解できないさ」

という会話は、考えを変える前、多くの観客に向けたジョークを考えていたアーサーの発言としては似つかわしくないように思う。なので、時間の順序が異なるという説はそぐわないのではないだろうか。

この会話の後に、血の足跡をつけて歩いているところを見ると、この質問者の女性はおそらく、思いついた「ジョーク」により危害を加えられているのだろう。

そういった意味では、順序通りか、全て妄想説がしっくりくる気がする。

こういった説をいくつも残しているのは、これまでのジョーカー像との乖離の理由にもなり、匿名性をかろうじて繋ぎ止める結末だ。

これまでのバットマンシリーズとは全く異なるものであると明言されているとはいえ、ファンはどうしても比較するし、時にはテストをするものだ。特にバットマンクリストファー・ノーランが新しい解釈を見せて成功しているシリーズだ。あのキャラクターをどのように描くか、オマージュはどこにあるのか、小さいネタを目を皿のようにして探すファンもいるだろう。最近のアメコミはそんな見方が当たり前になっている。

自分も当初はそのように見始めた。ゴッサム・シティの俯瞰が移ると、この鉄道はあの大変なことになる鉄道だな、とか、あの病院はもしかしてあの大変なことになる病院かな、など。トーマス・ウェインの名前が出て、アーサーとの関係を示唆された時には、そういうことなのか、と驚いた(のちに否定されるが)。しかし、観ていくうちに、そのような見方はあまりしなくなった。それは、アーサーとしての物語が秀逸だったという点と、『ダークナイト』のジョーカーのような、他人の心理を手玉にとるような、そして悪趣味を極めたセンスのある犯罪を犯すようになるとは、思えなかったからだ。

なので、後半にブルースの目の前で両親が撃たれる場面では、これまでのバットマンと同じように、劇場裏、ちぎれるネックレスなど、要素を抑えた再現をしていたので、あ、ちゃんとやってくれるんだ、と驚いた。それくらい、自由にやってしまっているという印象だった。

 よく考えれば、人気のキャラクターの過去を捜索して描く、というだけでも賛否あるところを、悲惨なものにしてしまっているわけで、それはかなり挑戦的で、よく実現できたな、と思う。その意味で、ブルース・ウェインの要素やこの結末は一種のサービスであり、また、ガス抜きでもあるのかもしれない。

監督は、この時代の映画を作りたかったが、それでは制作費が出ないため、アメコミで撮ることにしたのだという。作品中の社会情勢は、格差の拡大、暴動、社会的弱者の抑圧など、社会的な問題が深刻化する現在との関連が想起される。

前述したように、喜劇のように終演しても、全く笑えない。劇中でチャップリンを観て大笑いする観客たちとは対照的に。物事は見方によって悲劇にも喜劇にもなるとするならば、喜劇のように取り繕っても悲劇にしか見えないものはどのように受け止めれば良いのだろうか。この作品が描いた時代とリンクする現在という時代をどのようにみるべきか、が表されているのかもしれない。